2012-06-21

Bar 4gs 解散! 




RICOH  GRⅡ

 その小さなBarは8年前、ひっそりとオープンした。

 場所は大阪・浪速区元町。当時その界隈はまだ24時間スーパーやタワーマンションはなく、JR貨物駅の跡地が広がる香料とした町だった。そんなミナミの外れにその店はオープンした。

 黒と茶色と貴重にした店内には重厚なカウンターと座りやすい椅子。壁にかけられた大きめの液晶テレビでは映画がいつも流れていた。そこで二人の男がシェイカーをふっていた。初めて行ったのはいつだったのか思い出せない。酒が飲めないから一人ではなかったのだろう。若いバーテンダーが作るパスタのうまさと、酒場の店主らしからぬマスター北山さんの人柄に惹かれ通うようになった。 性格もキャラクターも違う二人のバーテンダーのコントラストは絶妙だった。
 当時、30代前半で、深夜まで仕事で駆け回り、店に入るのは午前零時を回ってから。ジンジャーエールを飲みながら、とびきりうまいクリームパスタを食べた。通っているうちにカウンターに座る常連さんらとも顔見知りになった。年齢も性別も、職業も違う仲間との会話は仕事の緊張をほぐし、視野を広げてくれた。仕事の話、恋愛の話、何も話題がなくてもそこにいるだけで落ち着けた。いつしかそこで「近所づきあい」と呼べるような関係も生まれた。<ミナミでの近所づきあい>があることに会社の同僚は驚いた。
 
 そのうち、同じカウンターにお客として座っていた年上の仲間が、マスターの支援もあり、近くで夢であったお店を開店させた。笑いに包まれ、選び抜かれたワインが飲めるそのBarは遠くからもお客が訪れる店となった。そして、4年間マスターと苦楽をともにした若いバーテンダーも卒業し、店を持った。もちろん近くで。兄貴分となった若きバーテンダーの店には若者が集う。
 
 点と点が線になり、そして面になった。いつの間にか荒涼とした元町界隈が住み心地のいい、かけがえのない町になった。

 ここで知り合い結婚した男女がいた。遊びに行った。旅行にも行った。店内がめちゃめちゃになるほどの喧嘩もあった。料理コンテストもやった。ここで写真の楽しさを知り、カメラを買った人も多い。写真コンテストも軌道に乗り始めた。ゴルフコンペは恒例になった。ゴルフに行った翌日、ほぼ確実にマスターは店を休んだ。それでも、だれもがずっとこのままだと思っていた……。

 2012年6月21日、午前5時。「Bar 4gs (For god’s sake)」は閉店した。

 最後の日は、多くの仲間とともに8年間分の時間がぎゅっと詰まった暑いけど、ゆるやかで、ぐだぐだな時間が流れた。いつものように寝ている仲間もいた。素敵な時間だった。
 
 北山さんが店に張り出したのは「閉店」ではなく「解散」。

 解散=集まっている人が別れ散ること。

 別れ散れば、再び集まることもできる。終わりではない。北山さんらしい。たくらむことの好きな北山さん。次のたくらみが発表されるまで待つことにしよう。

 「Bar 4gs 解散 !」







2011-09-15

浪花のムーンサルトプレス



 初めてムーンサルトプレスを見たのは初代タイガーマスク。だが、初代タイガーの卓越した運動能力による技はどれもきらめいていて、ムーンサルトプレスよりムーンサルトキック、フライングクロスチョップなどのほうが印象深かった。
 そのムーンサルトプレスに光を当てたのが武藤敬司。初めて武藤のそれを見た時、度肝を抜かれた。タイガーのプレスは体を横にひねりながら落ちるのに対して、武藤のは完全にバク転。それも190センチ近い武藤が高く舞い、そして、とんでもない飛距離で飛んで行った。間違いなく一撃必殺のフィニッシュホールド。
 こんな技があるのかと驚いたと同時に、どこまでプロレスの技は進化するのだろう!とドキドキしたのも覚えている…
     
               プロレスリング紫焔 IN 第37回ナニワ区民まつりにて

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2011-09-03

ご当地プロレス



 すっかり定着した感があるご当地プロレス。日本全国にいったい何団体あるのだろうか?
 かつては全日本、新日本の二団体。地方に住むプロレスファンは年に数度の興行に胸躍らせていた。アイドルの追っかけではないけれど、地方ではあの団体はどのホテル、あの外国人の行きつけのお店はどこと、会場などでファン同士情報交換し、カメラを片手に出待ちした。
 メジャーもかつてほど全国巡業しなくなった今、地域に根付くプロレス団体。メジャーほど大掛かりでもレスラーの体つきもけっしてヘビー級とはいえないが、プロレスを愛する気持ちはある意味メジャー以上。メジャーでは考えられないくらい選手と観客の心は近い。
 祭りにもかつてのように人を集める力がなくなった今、手の届く範囲の町のヒーローは地域活性の救世主かもしれない。
 恒例になりつつあるナニワ区民祭りでのプロレスリング紫焔。団体のモットーは「大阪を元気に。プロレスに活気を」 来年もぜひ来てほしい。
 プロレスリング紫焔 http://www.shi-en.com/index.html


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2009-12-09

米朝師匠の文化勲章



 落語家の桂米朝師匠が文化勲章を受章された。人間国宝としては亡くなった柳家小さん師匠についで二人目だったが、文化勲章の受章は落語家では初めて。

 米朝師匠は落語家ではあるが、もともとは研究者だった。大東文化大の学生の時、作家で、芸能研究家の正岡容の門弟となり、芸能の研究を続けていた。戦争が終わり、関西に戻った米朝師匠は舞台の評論を書いたり、落語会を企画し、その司会を務めるたりするなど研究者のようなことをされていた。だが、瀕死の上方落語の現状を知った正岡から「落語家になって後世に残せ」と命を受け、四代目桂米団治に入門し、落語家へなった。

 だから、入門当初から落語家と研究者としての二足のわらじを履いた。

 入門してすぐ滅びかけた上方落語の演目の収集を高齢の先輩から学び、研究し、演じた。300年の歴史を持つ上方落語は、江戸時代の時事風俗、習慣が色濃く残され、その当時でも観客に通じないものも多かった。そこで演目の風格を残しながら新たに焼き直し、観客が喜ぶ「商品」に仕立て上げた。「はてなの茶碗」「天狗裁き」・・・現在も残る上方落語の演目のほとんどは何らかの形で米朝師匠によって手が入れられているといわれる。

 また、人気落語家としてメディアで引っ張りだこになっても、浪曲や講談、寄席囃子などさまざまな上方芸能の研究は続け、その成果を「上方落語ノート」などの著書にまとめた。米朝師匠の研究や著書がなければ、今の上方落語の隆盛や上方文化の継承はなかったと言っていい。

 「文化勲章」と「人間国宝」。この二つの栄誉は、米朝師匠が歩み続けた二足のわらじが認められたことを意味しているようで、本当にうれしい。