今、上方の落語家は、250人を越える。米朝師匠がいなければ、ここまでの隆盛はなかっただろう。
米朝師匠は落語家の<商品>である演目の数が少なければ、上方落語の復興と広がりはあり得ないと考え、その発掘と伝承に力で取り組んだ。『地獄八景亡者戯』『はてなの茶碗』『天狗裁き』『算数の平兵衛』など今日、高座でよく聞くことのできるこれらの噺はいずれも米朝師匠が復活させた。
入門当初から演目の復活に対する熱意はなみなみではなく、師匠である四代目桂米団治のお通夜の席にお訪れた先輩噺家から、古い演目についての演出について聞き取りをおこなったこともある。断片的にしか残ってなかった噺について、故事を丹念に調べ、その土地の歴史や当時の生活環境、時事風俗などから補い、息吹を与えた。
その一方で、万人に上方落語が分かるようにする工夫も怠らなかった。現代では通用しない古典落語の言葉や事柄を<まくら>と呼ばれる演目の冒頭でさらりと解説。関西以外の人には聞きやすいといえなかった落語に出てくる大阪弁を、聞きやすい大阪弁にして語り、上方落語の面白さを全国に伝えた。古典落語の風格を保ちつつ、時代の感性を取り込み、やさしい大阪弁で伝える。それが米朝落語だったと思う。
その真骨頂が『地獄八景亡者戯』だった。江戸時代から伝わる小咄を原点とした噺を、古典落語の風格を崩さず作り直し、時々の時事風俗を取り込んだ一時間を越える超大作。1971年に開催した東京での初の独演会でも演じた。現在では一門の枠を越え、落語界の財産になっている。
もう一つの姿が、大阪の伝統芸能の研究者だった。落語家になる前に寄席文化研究家の正岡容の弟子となった。正岡の命により落語家になった後も、浪曲や講談、寄席囃子などさまざまな上方芸能の研究は続け、その成果を『上方落語ノート』『米朝ばなし 上方落語地図』、『桂米朝集成』などの著書にまとめた。なかでも『米朝落語全集』は上方の落語家にとって教科書となっている。それらの研究や著書がなければ、今の上方落語の隆盛や上方文化の継承はなかった。
かつて上方落語の将来について聞いたことがある。落語の定席「天満天神繁昌亭」ができる前の混沌とした時期だった。弟子の高座の声が聞こえてくる楽屋で、「先のことはわからんなあ」と言いながら、じっとその高座に耳を傾けながら、「古いものをきちっとやっているものもいる。新しいものをやっているものもいる。形は変わっていくかもしれないが、落語という芸は滅びないと思いますなあ」と話された。
その姿に、上方落語を一生かけて「文化遺産」にまで高めた噺家、芸能研究家の自負と凄みを感じると同時に、後輩を見守るまなざしは「百年目」の大旦那のようにあたたかかった。
天満天神繁昌亭の舞台上には師匠が書かれた「楽」の文字が見守ってくれている。